平成23年度資料小展示
- 第1回 : 吉田松陰所用の鏡 (山田)
- 第2回 : 長門豊田氏 (和田)
- 第3回 : 萩藩密用方と中山又八郎(1) (山﨑)
- 第4回 : スポーツ時代史展Ⅳ 明治時代の野球 (山本)
- 第5回 : 父親の身代わりとなった息子の物語 (伊藤)
- 第6回 : 俳人種田山頭火の新出資料―新収亘理家文書の中から― (吉積)
- 第7回 : 開国(2) (金谷)
- 第8回 : 鉄道競争すごろく―鉄道の発達― (山本)
平成23年度第8回資料小展示
「明治・大正のレトロすごろく」
さいころを振ってコマを進め、上がりを目指す「すごろく」ゲームは、かつて、子供たちの遊びの定番でした。すごろくでは、子供たちの「あこがれ」や「夢」がゲーム化されており、そのテーマや内容は時代をよく反映しています。今回の展示では、明治・大正期のすごろくを紹介します。 |
![]() |
|
平成23年度第7回資料小展示
「開国(2)―列強との条約―」
列強の日本接近の背景には、イギリスをはじめとする産業革命がありました。その結果、それらの国々は、国外市場や植民地を求めて、東洋に進出するようになったのです。そして、日本の歴史は、世界の歴史と無縁ではありえなくなりました。今回は、ペリーの来航から通商条約締結までの、主として徳山毛利家文庫に含まれる、和親条約・修好通商条約の一部を展示します。写真は、「浦賀行日記」(毛利家文庫30地誌17)のうち「久里浜夷人上陸図」です。 |
![]() |
【展示資料】
徳山毛利家文庫 条約3「亜墨利加条約」
徳山毛利家文庫 条約20「魯西亜条約」
毛利家文庫 30地誌17「浦賀行日記」
徳山毛利家文庫 条約15「亜墨利加国条約并税則」
徳山毛利家文庫 条約18「英吉利国條約并税則」収載「亜墨利加国条約并税則」
|
|
|
平成23年度第6回資料小展示
「俳人種田山頭火の新出資料~新収亘理家文書から~」
このたび、川崎市の亘理家から同家に伝わる古文書650件余りが当館に寄託されました。同家は、特別天然記念物ナベヅルの渡来地として知られる現在の周南市八代に居を構えた武家で、萩藩一門八家の筆頭・宍戸家に仕えていました。 当主であった亘理正(東京帝国大学で文学専攻、1895-1963)は、教鞭を執るかたわら、「ツルの俳人」ともいわれた俳人で、やまぐち文学回廊構想推進協議会『やまぐちの文学者たち』(平成18年3月刊)にも掲上されています。寒太の俳号を持ち、一時は、自由律俳句の荻原井泉水(鎌倉在住、1884-1976)が主宰する句誌『層雲』に投句することがありました。荻原の弟子のひとりに、放浪の自由律俳人として有名な、山口県を代表する文学者種田山頭火(1882-1940)がいます。 その関係から、荻原や山頭火、大山澄太などの自由律俳人をはじめとして井伏鱒二(作家、広島県出身、1898-1993)や松野自得(群馬県の俳人、1890-1975)など、著名な文学者の書簡類が含まれています。 その中から、新出資料として、山頭火の葉書8葉を紹介します。 |
![]() |
|
平成23年度第5回資料小展示
「父親の身代わりとなった息子の物語」
18世紀末に萩藩士能美吉右衛門以成によってまとめられた『蔵櫃録』の中に、次のような話が収められています。周防大島のとある百姓が、罪を犯して牢屋に入れられることになりました。その十八歳になる息子が、自分を父親の代わりに牢屋へ入れるよう藩に願い出ました。藩は願いが偽りでないか試しますが、息子は「死罪は覚悟の上」(死罪覚悟仕候)といって引き下がりません。結局、藩は父親との入れ替わりを認めることになりますが、今度はそれを聞いた父親が、息子を想って牢屋から出ようとしません。結局、父親を無理矢理牢屋から出し、七日後に息子も牢屋から出して、周防大島に帰らせたということです。今回は『蔵櫃録』を中心に、明治期になって編纂された人物伝も併せて展示し、この物語について解説します。(写真は『蔵櫃録』毛利家文庫16叢書87) | ![]() |
|
平成23年度第4回資料小展示
「明治時代の野球」
まもなく夏の高校野球シーズンです。甲子園大会の前身である全国中等学校野球大会が始まったのは大正4(1915)年のことです。 今回の展示では、それ以前、日本の野球の黎明期にあたる明治時代の様子について、当時の小学校の国語教科書および山口県内における野球興隆のきっかけとなった『山口高等学校野球部編「野球規則」』を中心に紹介します。 写真は 明治6(1873)年2月に刊行された『小学読本 巻一』で、子どもたちがボールとバットで遊ぶ様子が描かれています。(写真:『小学読本 巻一』、教科書文庫明治6-9) |
![]() |
|
平成23年度第3回資料小展示
「萩藩密用方と中山又八郎(1)」
密用方は、安永3年(1774)10月に新設され、様々な修史事業、記録編纂事業、調査事業を担当した役所です。幕末まで活動を続けた密用方は、次第に藩庁における「情報の保管庫」としての性格を帯びていきました。 密用方が収集、作成した文書記録は、現在、毛利家文庫の中で大きなウエイトを占めています。密用方は、毛利家文庫の源流の一つをを創り出したといえるのです。 密用方の初代頭人(密用方トップの役人)となったのが萩藩士中山又八郎です。 今回は、又八郎の仕事の一部を紹介します。(写真:中山又八郎の密用方就任記事/「密局日乗」、毛利家文庫19日記18) |
![]() |
|
平成23年度第2回資料小展示
「長門豊田氏」
豊田氏は、大内氏や厚東氏と共に「防長の三大名族」と称された一族です。平安時代に豊田郡司としてその姿を現し、南北朝時代に防長両国を統一した大内氏の傘下に入り、その後、毛利氏に仕えて江戸時代には萩藩士となりました。 |
![]() |
|
平成23年度第1回資料小展示
「吉田松陰所用の鏡」
萩の野山獄に再入獄を命じられた吉田松陰が、その入獄前日に、交流の深かった宇都宮黙霖から贈られた鏡です。 宇都宮黙霖(1824~97)は、幕末維新期の勤王僧。安芸国賀茂郡長浜(現広島県竹原市)出身。諸国を遊歴して、勤王の志士たちと交わり、松陰や頼三樹三郎、梅田雲浜らと親交がありました。討幕を主張した黙霖は、松陰に強い思想的影響を与えました。 松陰は、自身の肖像画が作られた際に、鏡に自分の姿を映してみて、その出来映えを批評したと言われています。 ちなみに、松陰の肖像画は、松下村塾時代に描かれ始め、後の野山獄中でも描かれたようです。この鏡は、その獄中での描写時に使われた可能性もあるのではと、想像をふくらませてみるのも一興でしょう。 鏡の包紙の表書きは松陰の、鏡蓋の墨書は黙霖の自筆です。 |
![]() |
|
「吉田松陰題字 黙霖所贈鏡」 (吉田松陰関係資料174) |