平成24年度資料小展示
平成24年度の展示
- 第1回 : 毛利家の家紋 (山﨑)
- 第2回 : 二ノ丸様と杉小次郎(1) (和田)
- 第3回 : 萩往還と道松 (山田)
- 第4回 : 古文書にみる祭り・行事 (伊藤)
- 第5回 : 井伏鱒二・荻原井泉水の書簡 -亘理家文書から- (吉積)
- 第6回 : 「つとめ」と「贈答」 (金谷)
- 第7回 : 幕末のガラス写真 (山田)
- 第8回 : 二ノ丸様と杉小次郎(2) (和田)
- 第9回 : 萩藩密用方と藩士長谷川甚平 (山﨑)
- 第10回 :明治時代の修学旅行―16泊17日間の旅― (山本)
- 第11回 :倒れ行く者達 -廻国修行者の行き倒れ- (伊藤)
- 第12回 :牛を殺す怪獣 シイのこと (金谷)
平成24年度第12回資料小展示
「牛を殺す怪獣「シイ」のこと」
牛は農民にとって大切な労働力であり、家族のように養いました。それは、多く牛小屋(駄屋)が母屋に接続してつくられていることからもわかります。牛の安全は人々の重大な関心事でした。今回の小展示では、その大切な牛を殺すという伝えをもった怪獣「シイ」について、いくつかの資料を紹介します。 「シイ」は狸に似た獣といい、貝原益軒の「大和本草」などにも記述されていますが、具体的にどのような動物かは定かでありませんし、江戸時代後半にはなかば伝説化し妖怪化しています。また盆には「シイ」を防ぐために「牛燈」とよばれる火祭りを行った村もあり、伝説の伝播と成長という視点からも興味深いものがあります。 写真は、「シイ」の出現をつげる「防長故事年表」の部分です。 |
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平成24年度第11回資料小展示
「倒れ逝く者達~廻国修行者の行き倒れ~」
当館が所蔵する「諸事小々控」(毛利家文庫31小々控、443冊)という文書の中に、六十六部という廻国修行者の県内における死亡記事が多数残されています。今回はこれらの史料の中から、小郡津市で宝永4年(1707)に行き倒れた土屋利兵衛という六十六部に関する史料を紹介します。 |
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平成24年度第10回資料小展示
「明治時代の修学旅行 ―16泊17日間の旅―」
日常をはなれ、見知らぬ土地を旅する楽しさは、今も昔も変わりありません。とりわけ修学旅行は、いつの時代においても、児童生徒にとって最も楽しみな学校行事であり、思い出に残る一大イベントでした。 1909(明治42)年、山口県師範学校において、17日間をかけて関西地方・関東地方を巡る修学旅行が実施されました。今回の展示では、修学旅行後に作成された「旅行記」をとおして、明治時代の修学旅行の様子を窺ってみます。 また、この旅行では数多くの観光地を訪れていますが、彼らが訪れた観光地について、戦前に発行された色鮮やかな観光パンフレットのいくつかを紹介します。 ※写真は、1923(大正12)年6月発行の「厳島案内記」(図書291-176)です。 |
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平成24年度第9回資料小展示
「萩藩密用方と藩士長谷川甚平 ―18世紀末、変わりゆく密用方―」
萩藩密用方は、安永3年(1774)、7代藩主毛利重就の時代に新設され、様々な調査、修史、記録編纂事業を担当した役所です。 設置当初の密用方は、主に藩主が要望する事業を担当していました。しかし、重就死後(寛政2年〈1790〉)は、藩が直面する重要課題(例えば海防・軍事問題等)に対応した事業を担う役所へと性格を変えていきます。 そのような時期、中心となって密用方業務を行った一人が藩士長谷川甚平でした。今回は長谷川の仕事を紹介します。 ※写真は、「密局日乗」(毛利家文庫・日記18)です。 |
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平成24年度第8回資料小展示
「二の丸様と杉小次郎-2」
二ノ丸様の最初の夫・杉小次郎は、実名を元宣といい、周防国野上庄(現在の周南市)の領主であった杉氏の嫡男です。 杉氏は、もともと室町時代に西日本最大の大名であった大内氏の重臣で、一族で栄えました。小次郎の家は、代々小次郎・次郎左衛門尉を仮名・官途として、名前の一字に「相」と「宣」字を交互に名乗るのが特徴です。15世紀末から3代にわたって大内氏の安芸国支配の拠点であった東西条(現在の東広島市)の代官を務めるなど、毛利氏とも因縁浅からぬ家でした。 今回の展示では、この杉小次郎及び杉氏に関する史料を紹介します。写真は「杉弘相書状」(浦家文書)です。 |
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平成24年度第7回資料小展示
「幕末のガラス写真」
天保10年(1839)、フランスでダゲレオタイプ(銀板写真)という写真技法が発表されました。ダゲレオタイプが我が国へ伝来したのは、嘉永元年(1848)、長崎の上野俊之丞(彦馬の父)が、オランダから器材を購入したことが始まりとされています。ダゲレオタイプは、器材や薬品などが輸入品であるため数量に限りがあり、また撮影時間(露光時間)が長いなどの弱点がありました。 その後、嘉永4年(1851)、イギリスでウエットコロジオンプロセスが発表されました。これによって、従来、数分~数十分を要していた撮影時間が、飛躍的に短縮(1分程度)されたのです。この技法は、我が国にも伝わり、湿板写真と呼ばれています。 今回の展示は、野村靖写真(写真右)など、3枚の湿板写真の実物を紹介します。目を見張るほど精緻な写真を、ぜひごらんください。 ※展示資料はいずれも『山口県文書館所蔵アーカイブズガイド―幕末維新編―』(山口県文書館、2010)に掲載されています。 |
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平成24年度第6回資料小展示
「つとめと贈答―『防長風土注進案』に見る村人たちの―」
人々は、年間を通じて実に多くの場面で、親戚や同じ村の人たちと、形式張った挨拶をかわし、また金品のやりとりや贈り物をし、互いの関係を深めました。それらのほとんどは「お互いさま」のことがらで、現代では「虚礼」として縮小されつつありますが、かつては、それ(つとめ)を怠ることは、社会生活を送るうえで、許されないことでした。「はじめからゼロである」ということと、「互いの贈答によってプラスマイナスがゼロになる」ということは、社会生活における関係性において、まったく違う、むしろ逆の意味をもっていたのです。 今回の展示では、江戸時代後期の村人たちの暮らしの中の「つとめ」と「贈答」のありようを、「防長風土注進案」によってみてみましょう。実に多くの「つとめ」が互いにおこなわれていたことがわかります。ただ、五節句のつとめのように、上から指導されたものは定着しにくかったことも、「注進案」の文面からうかがうことができます。 なお、「つとめ」を互いにしあうことを、「つとめあい」といいます。この言葉も、今はもうほとんど死語になっていますね。 |
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平成24年度第5回資料小展示
「井伏鱒二と荻原井泉水の書簡~亘理家文書から~」
山口県を代表する俳人で、現周南市八代に生まれ過ごして‘鶴の俳人’ともいわれた亘理寒太(本名正、1895-1963)が、広島県尾道の尾道中学校に英語教員として在籍し、かつ尾道の自由律俳句の同人句会「海光会」に属していた1925~1946年の間に、著名な文学者たちから届いた直筆書簡を、前回の漂白の自由律俳人種田山頭火(1882-1940)の葉書に続いて紹介します。 |
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平成24年度第4回資料小展示
「古文書にみる祭り・行事~山﨑八幡宮の本山神事~」
私たちの郷土山口県には、古くから受け継がれてきた祭りや行事が数多く存在します。今回は、これら祭り・行事の内、周南市富田の山﨑八幡宮で行われる本山神事に関する史料を紹介します。 |
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平成24年度第3回資料小展示
「萩往還と道松」
江戸時代、軍用と旅人の道標とするため、街道の両側に数多くの道松が植えられていました。例えば、萩往還の周防長門国境・板堂峠~山口・長野村だけでも、4,718本も植えられていたことが記録に見えます。 *今回の小展示は、第7回中国四国地区アーカイブズウィーク・アーカイブズ展示「絵図と古文書で見る萩往還」(6月9日~10日)の一部で構成しており、展示キャプションなどを共用しています。 |
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平成24年度第2回資料小展示
「二ノ丸様と杉小次郎」
二ノ丸様は、毛利氏の譜代家臣である児玉元良の娘です。美人の誉れが高く、当初、周防野上(のがみ)庄の領主であった杉小次郎に嫁ぎますが、のち毛利輝元の側室となり、萩藩初代藩主の秀就(ひでなり)と徳山藩初代藩主の就隆(なりたか)兄弟を生みました。 |
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平成24年度第1回資料小展示
「毛利家の家紋」
今回は、「家之紋・旗指物・合印等之図」(毛利家文庫15文武)を展示します。 |
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