平成30年度資料小展示
明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」
- 第1回 :「維新の三傑」と山口とビール(山﨑)
- 第2回 :「明治双六」でたどる近代日本-1868〜1903-(山本)
- 第3回 :「奇兵隊士のいでたち」(金谷)
- 第4回 :「新収資料紹介 長井家文書 -書状にみる長井雅楽-」(吉田)
- 第5回 :「幕末の唄〜トコトンヤレ節・ちょぼくれ節」(金谷)
- 第6回 :「明治初年 大村益次郎の手紙」(山﨑)
- 第7回 :「近代に祀られて-行政文書(神社関連資料)にただよう時代の雰囲気-」(淺川)
- 第8回:「万国博覧会参加の記録 -1893年シカゴ万国博覧会-」(山本)
- 第9回:「明治期 華族の日常」(吉田)
- 第10回:「明治期の県布達-掲示板で知る、読む-」(山﨑)
- 第11回:「明治期の灯台」(和田)
- 第12回:「貌~描かれた近代・撮された近代」(淺川)
明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第12回(最終回)
「貌~描かれた近代・撮された近代」
明治の訪れ、それは近代という時代に人びとが足を踏み入れた、時代の舞台転換のそのときでした。今月の資料小展示では、当館所蔵史料のうち絵画や写真に注目して、そこに「描かれた」あるいはそこに「撮された」、近代(明治・大正・昭和)のさまざまな「すがた」「かお」「かたち」「ようす」をさぐりだしてみたいと思います。といっても、新しい時代を描こうとか、撮そうとか意気込んで記録されたものではありません。そこに近代らしいと思われる姿が「ひょっこり」記録されていた、それを探りあててみようと思います。 |
岩国義済堂〈中央・高い建物〉(「防長名蹟」文書館図書290、明治41年) |
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第11回
「明治期の灯台」
本州最西端に位置する山口県は,北に日本海,西に響灘,南に瀬戸内海が広がっています。なかでも,九州との間にある関門海峡は古くから海上交通の要衝で,さまざまな航路標識(広義の灯台)が集中している地域です。特に,ヨーロッパ商船の航行が増え,「ダーク・シー」(暗い海)と酷評された明治初期,響灘沿岸と関門海峡には,日本政府の要請によりイギリス人技術者集団の手によっていち早く洋式灯台が整備されます。その光芒は,まさに海における文明開化のシンボルでした。その中には,今も重要な航路標識として立派に機能している灯台が多く存在します。それらが海上交通の安全を支えた長い歳月は,島や岬の自然に溶け込んだ優美な姿とともに,人々の心を魅了し続けています。 |
「角島灯台敷地買い上げにつき指令」(明治期政府布達類196)
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第10回
「明治期の県布達-掲示板で知る、読む-」
明治時代、県は県民に対し数多くの布達を出しました。その内容は法令や規則に止まらず、遺失物や漂流船の情報、犯罪者の人相書なども含むものでした。テレビもインターネットもない時代、それら布達は、各地に設置された掲示板を使って県民に周知される時期が長く続きました。山口県の場合、他県と比べ掲示板方式が長く用いられましたが、明治26年掲示板は廃止され、その役割を終えました。 |
「山口県布達達書」(山口県布達9)
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第9回
「明治期 華族の日常」
「明治」の世を迎え、江戸時代の大名は「華族」となりました。時代の変化に伴って、彼らもこれまでとは違った生活を送ります。 |
「御奥日記」
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第8回
「万国博覧会参加の記録 ―1893年シカゴ万国博覧会―」
万国博覧会は1851(嘉永4)年,ロンドンではじめて開催され,その後,西ヨーロッパ各国でたびたび開かれました。万博には,最先端の工業製品をはじめ,諸外国の物産が出品されたことから,万博は「西洋各国の物産に触れ,機械技術を伝習する場」,また「日本製品を紹介し,諸外国へ売り込む場」と認識され,日本も積極的に参加しました。 |
「臨時博覧会事務局報告附属図」
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第7回
「近代に祀られてー行政文書(神社関連資料)にただよう時代の雰囲気ー」
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「官国幣社」 (戦前B文書課604)
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第6回
「明治初年 大村益次郎の手紙」
当館所蔵「大村益次郎文書」は、大村家に伝来した大村益次郎に関する文書群です。この中には、幕末から明治初年にかけ、木戸孝允をはじめとするさまざまな人びとから大村に宛てられた多数の書状とともに、大村が父に宛てた書状9点、妻琴に宛てた書状4点が残されています。 |
「大村益次郎書状(琴宛て/部分)」 |
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第5回
「幕末の唄〜トコトンヤレ節・ちょぼくれ節」
幕末期の多くの事件は、文字で書かれたもののほかに、調子のよい七・五調にのせて歌われ、また語られて人々のあいだに知られていきました。ここで紹介する「ちょぼくれ」もそのひとつです。 「ちょぼくれ」は江戸時代後期に説経節や人形浄瑠璃・歌舞伎の「クドキ」の影響を受け、タイムリーな話題を聴衆におもしろおかしく、興味をそそるように聴かせたものです。各地で起きた事件を題材に作られ、歌われ(語られ)ました。まさに今日でいうニュースの一形態といえるでしょう。当館の塩田家文書にのこる、「大田・絵堂の戦い」を題材にしたちょぼくれを紹介します。大田・絵堂の戦いは元治2年(1865)正月、美祢市美東町の大田・絵堂を主戦地として、萩藩政府の正規軍である先鋒隊(撰鋒隊)と、高杉晋作ら諸隊との間で戦われた長州藩の内戦です。1月6日の夜半に諸隊側の奇襲で始まった戦闘は、10日間の交戦で諸隊が勝利しました。 また慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると、長州などの倒幕軍(新政府軍)の立場で歌った「宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じやいな あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」で知られる「トコトンヤレ節(トンヤレ節)」が流行しました。作曲は大村益次郎ともいわれるものの確証はありません。作詞は品川弥二郎です。 |
「美祢郡大田絵堂戦ちょぼくれ節」 |
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第4回
「新収資料紹介 長井家文書 ―書状にみる長井雅楽―」
幕末、萩藩(長州藩)の政治を主導した人物のひとり、長井雅楽(時庸、文政2年[1819]~文久3年[1863])はあまりにも有名です。彼は「航海遠略策」を掲げ、公武の和合を訴えましたが志半ばで失脚し、文久3年2月6日、藩命により自刃しました。享年45歳。ところで、幕末史における長井雅楽の政治的活動はこれまで注目されてきましたが、彼の「人となり」についてはどうでしょうか。このたび当館に寄贈された長井家文書には、雅楽と家族との間で遣り取りされた30通あまりの書状が含まれています。そこには、夫として、父として、長井家の長としての雅楽の「思い」が、また家族の間だからこそ表せた「本音」がしたためられています。今回の展示では、「政治家」としての長井雅楽からは離れ、家族を持つひとりの「人間」としての一端を御紹介いたします。
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「長井時庸書状」 |
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明治150年記念 資料小展示「文書館資料にみる幕末・明治の人・物・文化」 第3回
「奇兵隊士のいでたち」
当館の「元森家文書」から、奇兵隊士だった元森熊次郎の軍服・軍服着衣の写真・奇兵隊の袖印を紹介します。「元森家文書」は諸隊士のまとまった遺品として貴重で、軍服を納めた箱の蓋裏書や書簡からは、彼の活動の実状がうかがえます。
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「奇兵隊士元森熊次郎写真(湿板写真)」 |
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