山口県文書館

文書群詳細画面 一覧画面へ戻る
文書群名

長松家文書

分類

諸家文書  >  長松家文書

点数

24

伝来地

目録内容

閲覧室目録

組織歴・履歴

長松家は,中世に安芸国志芳庄東村(現,広島県東広島市)に拠った有力国衆である天野家氏の三男・元範に始まる。その子孫が,本拠であった同国加茂郡長松村に因んで名字を長松と改め,天野氏の一門・重臣として活躍した。江戸時代は,天野氏の流れを汲む萩藩一門・右田毛利家の家臣となった。嘉永年間の「右田毛利家分限帳」(防府市桂家文書NO41)に見える大臣通(いわゆる家老)の長松勝兵衛家がこの家に相当する。明治期には,同家出身の長松操(みさお)が山口県会議員・佐波郡会議員・小野村長などを歴任した。

内容

長松家が,戦国期に天野氏の重臣として活動したことにより受領した文書群と,江戸時代に武家として活動したことを示す武術伝書などに大別される。前者は,数量的には主家の天野氏よりも毛利氏から出された文書のほうが多く,長松氏が毛利氏からも天野氏の重臣として認識され,直接交渉していた様子がうかがわれる。例えば,元亀元年(1570)に天野氏が守っていた出雲大東賀武路城番衆の交替に際し,毛利氏が不満を示し,天野氏家臣のうち,長松氏か三宅氏のどちらかに担当させるよう要望した事例(NO1(11の11))や同年に長松綱総が死去した際の悔状(NO2(10の4〜5))などは,毛利氏からも評価されていた長松氏の立場をよく示すもの。このほか,毛利氏から内々に言ってきた案件の相談(NO1(11の4))や,合戦中の重要事項への対応を託された事例(NO2(10の7))など,主家の天野氏からも代々頼りにされたことをうかがわせる事例は少なくない。 なお,本文書群の大部分は,「右田毛利譜録」に収録されている文書の正文に相当するが,陶興房奉書(NO1(11の1))など6点は譜録にも収録されていない新出の文書である。

論文・翻刻

▼『広島県史』古代中世資料編5(広島県,1980年) ▼『山口県史』史料編 中世3(山口県,2004年)

関係地域

キーワード

安芸国人/萩藩陪臣(右田毛利家臣)

文書の年代

大永7年(1527)〜天保13年(1842)