資料小展示 - 平成25年度
第11回資料小展示 巨漢 龍門好五郎
江戸時代後期、「龍門好五郎(由五郎・芳五郎・吉五郎)」という巨漢力士がいました。当館の資料では、身長なんと七尺五寸(227cm。別説あり)。好五郎は文化4年(1807)、現在の山口県大島郡周防大島町家房(かぼう)に生まれ、天保4年(1833)2月に故郷で亡くなりました。謎の多い彼の生涯をご紹介します。
好五郎の力士としての対戦成績は残っていませんが、文政11年(1828)の10月場所(江戸での勧進大相撲)において、相撲は取らずに「張前(張出前頭)」として土俵入りだけをつとめた記録があります。当時、このような力士を「看板力士」といいました。その巨漢を見込まれてのことだったと思われます。
同じ年の6月と7月、彼は江戸勧進相撲に先立って、大坂や京都の上方相撲でも看板力士として登場していますが、それらの各番付や国安の錦絵では、好五郎は「伊予」の力士となっています。「龍門」というしこ名も伊予にゆかりのあるものといい、当時好五郎は伊予で抱えられていたものと思われます。なお、江戸深川の富岡八幡宮には、「巨人力士身長碑」「巨人力士手形足形碑」が建てられており、前者には好五郎の身長が、後者には好五郎の手形と足形が、それぞれ刻まれています。
文政11年10月場所当時、萩藩主の毛利氏は、大関阿武松(おうのまつ)、関脇岩戸山峰右衛門、前頭越ヶ浜岩五郎などを抱えていました。好五郎が好角家の毛利氏の目にとまらぬはずはなく、のち天保2年(1831)正月、故郷に帰っていた好五郎に対して出萩の達しがあり、萩では御覧を受け、御銀を頂戴しました。その後、今度は江戸へ差し登るよう指令を受けましたが、結局江戸行きは延期になってしまいました。
翌天保3年(1832)には長崎に手形を残していますが、秋から病気になり、天保4年(1833)に故郷で亡くなりました。墓は故郷、家房の墓地にあります。「大誉龍門厲関禅門」と彫られた1メートルあまりの自然石で、不思議なことにこの墓だけが砂の中に沈んでいくといいます。巨漢ゆえに生まれた伝承でしょう。近くには、好五郎の手形碑が建てられています。なお、好五郎が故郷に帰ったのは、大坂で某力士と対戦することになり、恐れをなした相手力士に毒酒をもられて病を得たことによるという伝えもあります。
【好五郎の巨漢・怪力伝説】
- 手のひらに一文銭が横に10枚並べられたので、「十文由(じゅうもんよし)」の異名があった。
- 煙草入れを屋根に置いて煙草を吸った。
- 周囲1メートルの木を根こそぎにして帰った。
- あまりの大食に困った家族が四国廻りを勧めた。伊予でたまたま通りかかった大洲の殿様が馬に乗った無礼者を見咎めたが、徒歩の好五郎であった。
- そのとき、殿様が与えた周囲1尺ばかりの青竹を握り砕いた。
- 1間(1.8メートル)を隔ててろうそくの火を吹き消した。
- 大洲の抱え力士と綱引きをさせたら、相手が8人までは平気で、9人目に負けたので「八人半力」といわれた。
- 大洲の殿様からいただいた米3俵を両手で押し頂いた。
- 会期
- 平成26年3月1日(土)~30日(日)
- 閉館日
- 月曜・祝日
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第10回資料小展示 厚東氏と同時代の武将たち
厚東氏は、大内氏と並び中世の防長両国(現山口県)を代表する武士です。14世紀の南北朝時代に長門国守護に任じられるなど最盛期を迎えますが、大内氏との勢力争いに敗れ、没落します。そのために残された関係史料も少なく、厚東氏の研究は大内氏と比べると立ち遅れています。しかし、最近厚東氏に関する史料集が刊行され、展示会も開催されるなど、注目を集めつつあります。
今回の展示では、その厚東氏が活躍した南北朝時代の、厚東氏とも関わりのある5人の武将(足利尊氏、足利直義、足利直冬、大内弘世、平子親重)の文書を紹介します。本文は、右筆(書記官)が書いていますが、サイン(花押)は本人の手になるものです。内容はもちろんのこと、筆跡、墨の濃淡、字配りや使われている紙などにも注目して、650年の時を経て伝わってきた文書の迫力を味わってみてください。
- 会期
- 平成26年1月5日(日)~2月16日(日)
- 閉館日
- 月曜・祝日・1月14日
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第9回資料小展示 家督相続と文書~よくよく嗜み置くべき事もっとも肝要に候~
今回は、当館が所蔵する能美家文書のなかから、家督相続のさい、新旧当主の間で、家督といっしょに家伝の文書が引き渡されたことを示す史料、譲状(ゆずりじょう)を紹介します。
江戸時代、藩士たちは、家に伝わる文書を大切に保存・継承しなければならないという意識を強くもっていました。武家としての自らの歴史を示し、藩主との関係を証明するものであったからです。家訓の中に、家伝の文書を大切に保存すること、火事の時には一番に持ち出すこと、を明記した家もありました。
萩藩士能美家は、次の当主に家督を相続する際、あわせて家伝の文書を譲ることを譲状に明記しました。その中には、藩主との関係を示す文書はもちろん、かつて能美家の本拠地であった安芸国能美庄に関する中世文書も含まれていました。
能美家は、文書を「よくよく嗜み置くべき事もっとも肝要に候」と記しています。「嗜置(たしなみおく)」とは、「文書を大切に保存する」という意味で用いられた言葉でした。
- 会期
- 平成25年11月30日(土)~12月27日(金)
- 閉館日
- 月曜・祝日
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第8回資料小展示 萩藩郡方地理図師有馬喜惣太伝~郡方地理図師の誕生~
萩藩絵図方は、江戸時代を通じて、公用絵図類の作製を担当した役職でした。絵図方は、承応元年(1653)1月、厚母四郎兵衛就房の就任(御両国絵図方)に始まり、以後、四郎兵衛就種、同房信と、3代にわたって厚母家が受け継ぎました。その後、正徳3年(1713)6月から明治初年に至るまで、平田仁左衛門敦恒をはじめとする平田家が、正式に家業として世襲しました。
絵図方の職務は、幕府・藩主・藩要路からの依頼による各種絵図類の作製をはじめとして、関連文書の作成、国目付・巡見使来藩時の視察対応、高札方兼帯など多岐にわたっていました。絵図作製を基軸としつつ、いわば総合地誌情報局としての役割を担っており、藩政執行上、欠くことのできない部署の一つだったのです。
これらの職務に加えて、以前から問題となっていた蔵入地と給領地や村々の境界を明確にするため、享保5年(1720)12月、平田のほかに、特命を受けた形で大組井上武兵衛が絵図方(明細絵図方)に就任し、防長両国一村ごとの村絵図(「一村限明細絵図」)と「境目書」・「由来書」・「石高書」などの村明細書(「地下上申」)の作成に着手しました。同時に、領内の各寺社の由来等を記した「寺社旧記」(「寺社由来」)も作成され、結果的に、領内全域にわたる地誌編纂事業が推し進められました。この事業遂行のため、井上の片腕として絵図方に付け置かれたのが、御雇有馬喜惣太でした。
有馬喜惣太(1708~69)は、阿武郡生雲村三谷出身。福原家臣有馬八兵衛正光次男。実名武春。藩御用絵師雲谷等達の弟子となりました。享保7年(1722)、芝御前(毛利宗広妹皆子)婚礼御用のため御雇となり、元文元年(1736)までの15年間、雲谷家御用としてたびたび出仕しました。身柄は繁沢権兵衛(雲谷等直の改姓改名)の育として、宝暦12年(1762)まで26年間絵図方に勤務しました。宝暦12年(1762)9月、喜惣太は、その長年にわたる功績を認められ、寺社組に取り立てられ、「郡方地理図師」の職名を与えられました。これが、萩藩における、地理と絵図を専門とする技術者に対する肩書きの初出となりました。
喜惣太の役目は、郡方定居にして、防長両国内の蔵入地・給領地そのほかの境界について、記録類を照合し、場合によっては絵図を作製して明確にすることであり、代々その役目を怠転なく勤める、というものでした。この背景には、以前から諸郡で境界問題が起きている一方で、役人の交代もあって詳しい者がいないという状況があったのです。喜惣太が「郡方定居」とされた理由は、まさしくこの用務に関する専属の担当者が必要とされたためでした。
- 会期
- 平成25年11月1日(金)~11月28日(木)
- 閉館日
- 月曜・祝日
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第7回資料小展示 銃陣鼓譜~西洋音楽事始め~
江戸時代の末期、西洋式軍隊の整備にともなって、日本に西洋音楽が入ってきました。これにより、人々は、ドラム演奏を中心とした、それまでとは全く違う音楽に触れることになりました。今回の小展示では、その時に作られたドラム演奏の楽譜である「鼓譜」を紹介します。
- 会期
- 平成25年9月28日(土)~10月30日(水)
- 閉館日
- 月曜・10月15日
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第6回資料小展示 目安箱の投げ文「暮詰連苦」~18世紀半ば萩藩の世相~
目安箱は、政治改革の参考にするため広く意見を求める目的で、江戸幕府では8代将軍徳川吉宗が享保6年(1721)に設置した投書箱のことで、教科書にも出てきます。萩藩でも同じ年に藩校明倫館に設置されました。
紹介する投書は「暮詰連苦」と題さた、寛保3年(1743)霜月(11月)のものです。年の暮も押し詰まり、年末のやりくり(暮し)が大変苦しい実情を連句(13首)の形で披攊しています。差し出し人の名前はありませんが、筆者は明らかに萩藩士で、生活の疲弊ぶりを恨みたらしく書きつらねています。宛名は山内縫殿広通(1747年没、享年60歳)です。元文3年(1738)から延享元年(1744)まで萩藩の当職を勤め、その前後にも国元加判役や当役という要職を担った人物です。
寛保3年は、享保17・18年(1732・1733)の大飢饉から約10年。同年9月幕府に報告された防長両国の人口は475,845人で、享保17年の486,485人と比較して、10,640人、2.2%減少したことになります。また、前年末から春にかけて風雨洪水が頻発して、損毛高13,000石余り、倒家3,484戸、死者16人などの被害状況を萩藩は幕府に届け出ています。そして、前年には幕府から利根川堤防修築助役の命も下り、大きな借金を抱えざるを得ませんでした。かくて、「御馳走(米)」(主君に納める米)を出し尽して、にっちもさっちも行かない餓死寸前、窃盗をも働きかねない、追い込まれた家頼の恨み、つらみの歎き節が連綿と綴られ、最後に「死ね」とまで放言するに至っています。
翌延享元年(1744)11月12日、縫殿は当職を解かれ国元加判役に転じました。縫殿の功績については、「山内縫殿役中勤功付」(毛利家文庫・諸臣47)があるほか、『毛利十一代史』寛保3年12月9日の条には「当職山内縫殿切迫ノ財政整理ニ尽瘁セシニヨリ奉書ヲ以テ金海鼠下付」とも記されています。毛利家文庫・譜録(追加・山内九郎兵衛就資)によれば、要職の辞意を何度も表明したにもかかわらず、そのつど慰留されたことも含め縫殿広通の功績を書き綴った後、延享4年(1747)11月5日のこととして「気分相ニ付御役御断申出候事」とあり、系図には同日が死去年月日になっています。殉職です。晩年は自らも借銀をして凌いでいたこと、そして、妻を寛保3年7月2日に病いで失い、さらには長男を元文元年(1738)、次男も延享3年(1746)にそれぞれ18歳と21歳の若さで早世したことも書かれています。加えて娘(7歳未満)を寛保3年5月10日に亡くしていることも判明します。
まさしく困窮の時代の様相を、一通の目安箱の投げ文から見てみます。
- 会期
- 平成25年8月31日(土)~9月26日(木)
- 閉館日
- 月曜・月曜祝日の翌火曜
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第5回資料小展示 大友宗麟の発給文書
大友宗麟(そうりん)(1530~87)は、豊後府内(現在の大分市)を本拠とする戦国大名・大友氏の当主です。宗麟は、実名を義鎮(よししげ)といい、出家後は宗麟→三非斎→円斎→府蘭→宗滴と名を改めます。全盛期には北部九州6か国を支配する一方で、ポルトガル船などと南蛮貿易を行いました。また、サビエルを招いてキリスト教の布教を保護し、自らもキリシタンとなって、フランシスコとも称するなど、「キリシタン大名」として著名な人物です。後半生は、臼杵(現在の大分県臼杵市)にうつってそこを居城としました。
今回の展示では、この大友宗麟の発給した文書を紹介します。本文は、右筆(ゆうひつ)とよばれる字のうまい書記官が書いていますが、サイン(花押)は本人の手になるものです。また大友氏は、斐紙(ひし)とよばれる当時の最高級紙をよく用いています。内容はもちろんのこと、使われている紙の種類や墨の痕などにも注目して味わってみてください。
- 会期
- 平成25年8月1日(木)~8月29日(木)
- 閉館日
- 月曜
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第4回資料小展示 伊勢神宮と山口
今年は20年に一度の、伊勢神宮の式年遷宮の年です。
はるかな歴史をもつ伊勢神宮は、中世に入ると多くの武将や有力者に崇敬され、さらに近世になると御師(おし、おんし)たちの活発な活動もあって、庶民の旅の対象として、しばしば爆発的な参宮ブームが全国的に巻き起こりました。なんと犬までもが参宮をおこなった事例も、数多く知られています。
また山口には、16世紀前半に大内義興が伊勢神宮を勧請した高嶺太神宮(山口大神宮)があり、「西のお伊勢さま」として、九州方面からも多くの信仰を集めました。しかし、幕末にいたり、長州藩が藩府を山口に移し、関門をおいて他国人の山口への出入りを封鎖したことから、小郡と台道に大神宮の遥拝所を設け、参宮者の便宜と、街道沿いの振興をはかることになりました。
今回の小展示では、前半(7/2~14)で、当館にのこる伊勢参宮と御師の記録を、後半(7/17~30)では、高嶺太神宮(山口大神宮)とその遥拝所の記録をご紹介します。
- 会期
- 平成25年7月2日(火)~7月30日(火)
- 閉館日
- 月曜・7月16日
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第3回資料小展示 山口県災害記-過去の記録に学ぶ-
平成23年3月11日、東日本をかつて見たことのない地震や津波が襲いました。当初「想定外」と言われた災害も、時が経つにつれて、古い記録の中に同規模の災害が記されていたことが分かってきました。
「かつて山口県にも甚大な被害をもたらした災害があったが、忘れ去られようとしているのではないか」
このような危機感のもと、今回は、館蔵資料の中から、過去の災害に関する資料を紹介します。
*今回の小展示は、第8回中国四国地区アーカイブズウィーク・アーカイブズ展示「山口県の大災害」(6月1日~9日)の一部で構成しており、展示キャプションなどを共用しています。
- 会期
- 平成25年6月1日(土)~6月30日(日)
- 閉館日
- 月曜・祝日
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第2回資料小展示 山口町人安部氏の奥州旅日記
~京・江戸に遊び、富士山に登る。東北で見たものは~
今から約210年前の文化2年(1805)、山口町の町人安部四郎右衛門が、東北地方を訪れる大旅行に出かけました。彼が40代半ばの頃です。6月15日に山口を発し、11月19日に帰国するという長い旅でした。立ち寄った国は、遠く陸奥国をはじめ、20ヶ国以上に及んでいます。大坂、京都、江戸などの大都市をはじめ、伊勢神宮など各地の著名な社寺に立ち寄り、途中、富士山にも登りました。8月下旬に陸奥国に至り、仙台、塩竃、松島、金華山などを訪れています。はるか遠い陸奥国の風景は、四郎右衛門の目にどう映ったでしょう。
この旅に関しては、「あつまにき」「みちのく行」「山鳥渡二口越」「恋じいるまかい道」と題された複数の旅日記が残っています。平成24年度、文書館古文書実践講座でこれらをテキストに用い、受講生によって釈文が作成されました(閏8月9日分まで)。現在、当館webサイトで公開しています。
- 会期
- 平成25年5月1日(水)~5月30日(木)
- 閉館日
- 月曜・祝日
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料
第1回資料小展示 芸州吉田行程記
「芸州吉田行程記」(福尾猛市郎収集史料22、当館蔵)は、山陽道の小瀬川国境を発して広島城下へ向かい、同城下で分岐して北上したのち、毛利元就墓所・郡山城跡のある安芸国高田郡吉田庄に至る道筋を描いた街道絵図です。*写真は吉田庄部分です。
全1帖の折本装。法量は、縦27.8㎝、横14.3㎝。これは、毛利家文庫「行程記」とほぼ同規格です。縮尺は、一里山の記載がおよそ3葉半毎であることから、上記「行程記」と同じく、7800分の1程度とみられます。表紙・裏表紙ともに柿渋塗りが施されています。表紙中央に外題箋が剥落した跡があり、その部分に「芸州吉田行程記」と墨書されています。墨書の筆者や時期は不明ですが、別の史料には「小瀬川より吉田迄之行程記」と記されています。巻頭、凡例下部の張り紙に「折数 三拾七折」と記されるのに対して、現状は29折で、8折分が欠失していることがわかります。
萩~江戸間を描く毛利家文庫「行程記」は、上り・下り両用図となっています。凡例が巻首尾にあり、萩方面から開けば上り、江戸方面から開けば下りとなる趣向です。描写の視点は常に街道上の高所に据えられ、街道を挟んだ左右両方の景観が、画面上では上下向き合わせに描かれています。これに対して、本図は上り・下りの設定がなく、常に進行方向の左側高所から右方向を俯瞰した斜景図で、街道絵図「御国廻御行程記」(寛保2年〈1742〉)と同様の仕立てとなっています。本図の場合、広島城下までは山陽道を東上するため、南が図の上側になり、本州の陸地側から瀬戸内海方面を俯瞰した構図となっています。また、同城下からは北上するため、今度は東が図の上側になり、街道の西方から東方を望んだ構図となります。
作者は、萩藩絵図方付置きの絵師・有馬喜惣太で、作製時期は、宝暦12年(1762)9月15日から24日の間です。同年6月28日から8月10日まで、喜惣太が、藩主御密用の「元就公御廟所図」・「郡山絵図」作製のため、安芸国吉田へ出張した際に、用務の合間を使って下図を作り、帰国後に仕上げたものです。作製目的は、藩命ではなく、国元裏判役高須平七の内見に供するためでした。
※期間中、適宜、展示替えをおこないます。
- 会期
- 平成25年3月30日(土)~4月28日(日)
- 閉館日
- 月曜
- 会場
- 文書館閲覧室
- 備考
- 観覧無料