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文書群名

藤山一雄文書

分類

諸家文書  >  藤山一雄文書

点数

944

伝来地

目録内容

閲覧室目録

組織歴・履歴

1889年4月玖珂郡神代村平原(現岩国市由宇町神東)生れ。岩国中学校、第五高等学校を経て、1916年東京帝国大学法科大学経済学科卒。途中1913年、来日中のデンマーク人農家(札幌近郊)の下で就農を経験。1916年歩兵第11連隊入隊(一年志願兵)。1919年下関日本基督教会で受洗。傾倒したヘンリー・ソローの著書『森の生活-ウォールデン』の試みとして下関市長門一宮前にて農業を主体に質実堅確かつ創造的、文化的な生活を実践。1921年下関梅光女学院地理科教師に就任。1926年退職に至るまで学内外での執筆出版、建築、画業活動、音楽(海峡オーケストラ楽員)等、下関に文化的な痕跡を残す。高島北海・三郎父子、潮見長彦、本間俊平、広津藤吉、河村幸次郎、足立光学レンズ創設者足立英一など下関時代の多彩な交友関係は晩年まで続く。1926年大阪毎日新聞懸賞論文一等当選の「五十年後の九州」を執筆。/同年渡満。大連埠頭で働く中国人労働者(苦力)の厚生事業に尽力、収容施設・碧山荘にかかわる。満鉄会長山本条太郎に見込まれ、1929〜30年満鉄嘱託として渡欧(デンマーク・スイス)・渡米。1931年9月関東軍の要請で「満州国独立宣言」文案を起草。1932年3月より満州国国務院実業部総務司長、監察院総務処長、国務院恩賞局長など同国官僚として活動するも、1937年7月辞任。東方国民文庫刊行会を設置、委員長へ。1939年3月満州国国立中央博物館副館長に就任。1940年に著した『新博物館態勢』は、藤山の理想とする博物館像を顕著に示す。/終戦後、1946年7月引き揚げ、9月帰郷。1947年周東畜産協会創立、1949年12月周東養鶏農業協同組合理事長就任。「周東のヒヨコ」「1日1人卵1個」をスローガンに普及、広報活動用パンフレット・冊子(挿絵:藤山)発行。「農山村文化研究会」を設置。冊子『農山村文化』発行。1954年5月山口県顧問に就任。1955年以降、農山漁村振興対策審議会委員、町村合併調整委員など県の各種公職に就任。/1957年5月第14回中国文化賞受賞。文化人としても評価が高い。/代表的著書に『清貧饗盤抄』『住宅芸術』『食卓三昧』『新博物館態勢』『農民の生活』『新しい農家』『ロマノフカ村』『食生活の世界地図』『スイス山村生活』『歌集三密抄』『廣津先生の生涯』『イエスの世界』(詳細は大塚康博著参照)。/1975年4月10日死去。85才。

内容

資料群は、藤山一雄の活動に関わり、藤山が作成、授受、収集した文書記録、図書、刊行物、およびモノ資料で構成される。内容、形態などを基準に14の大項目に分けている。/「日記」は1914年(大正3年)の日記(NO6)、大正期の入隊時の日記(NO7・8)が古く、以後は満州引揚時の日記(NO9)をはじめに昭和戦後のものが連続して残る。「原稿類」「スケッチ・絵」「スクラップ」など自らの原稿、絵画類、新聞投稿記事のスクラップも丹念に残されている。「講義ノート」は多くが東大時代のもの。「図書」は量的に資料群の大半を占める。藤山自らの著作刊行物を中心に、藤山が収集あるいは寄贈を受けた図書(満州国関係多数)、藤山が原稿を投稿した雑誌類などで構成される。地図・パンフ・リーフレットには満州関係のものが多く含まれる。「古文書」は、天保15年「夷蛮漂流帰国録」1点(NO697)。購入あるいは寄贈されたものか。「モノ資料」には、「満州国国立中央博物館館長之印」のほか、藤山が引揚時に使用した雑のう・リュックサックがある。

論文・翻刻

▼犬塚康博『藤山一雄の博物館芸術 満州国国立中央博物館副館長の夢』(共同文化社 2016年)▼犬塚康博『反博物館論序説 20世紀日本の博物館精神史』(共同文化社 2015年)▼名古屋市博物館『新博物館態勢』(名古屋市博物館 1995年)▼佐藤睦子「翻刻・藤山一雄『東邊紀行』(一)(二)」(梅光学院大学『地域文化研究所紀要』22・23 2007・2008年)▼青木豊・矢島國雄編『博物館学人物史(上)』(雄山閣 2010年)

関係地域

キーワード

満州国/博物館/農業/キリスト教徒/新生運動/知識人/文化人

文書の年代

天保15年(1844)〜平成28年(2016)

選択中文書群名

藤山一雄文書

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