階層検索
- 文書群名
-
飯田家文書(小平市)
- 分類
-
諸家文書 > 飯田家文書(小平市)
- 点数
-
4
- 伝来地
-
小平市
- 目録内容
- 組織歴・履歴
-
飯田家文書4点は、幕末~明治期に活動した飯田耕蔵、津村精作に関連が深いものである。文書所蔵者の曽祖父が飯田耕蔵、曽祖父の弟が津村精作という。No.3「前勤録」によれば、飯田耕蔵は初め忠太郎を名乗り、弘化4年(1847)正月に貞七に改名、のち嘉永7年(1854)7月10日に耕蔵と改名した。耕蔵は天保14年(1843)4月、萩藩13代藩主毛利敬親の参勤交代に従い江戸に登り、江戸麻布屋敷の武具掛・大検使役の手子を務めたのが最初の任務であった。帰国後、年貢米の大坂搬送(大坂御運送米上乗)業務で大坂へ派遣されたり、小郡宰判の所務方手子などを務めている。そのほかにも幕末期に就任した業務は多い。就任した業務から判断すると、身分は萩藩の蔵元付中間(くらもとつき ちゅうげん)であったと考えられる。明治期には、岩国支庁へ派遣され官員として業務にあたっている。津村精作は、田村哲夫編『防長維新関係者要覧』に「津村精作直敬」とある人物と考えられる。それによれば、生年は天保13年(1842)、没年は慶応2年(1866)9月9日、出自は北村卯之助組与右衛門養子。幕末期の諸隊、御楯隊、整武隊の嚮導として活動したことが知られるが、「芸州大野負傷後死(25)」とあるので、四境戦争・芸州口の戦いで負傷し25才で亡くなったようである。No.4「維新史料 第二」に綴られている文書に「文久三亥年改之 直敬記行 要用帳」がある。また同綴に綴じられたひとつの記録の裏表紙に記される「津邑英介」と津村精作は、養父子の関係になる(一時的に津村家の養子となるが、後に飯田家に戻る)。
- 内容
-
No.1・2は萩藩の「四冊御書付」のうち一と三。「四冊御書付」は明和8年(1771)、萩藩が編集した地方支配の基本法令集。4冊で構成されることからその名がある。飯田家文書に残るのはそのうちの一と三。No.3「前勤録」は、幕末期の飯田家当主・飯田耕蔵聰行が天保14年(1842)から明治7年(1874)に務めたさまざまな業務、役職を書き上げた記録。これにより飯田耕蔵の経歴を知ることができる。 No.4「維新史料 第二」は幕末維新期のさまざまな史料の写本、文書原本が綴られているもの。作成経緯は不明である。
- 論文・翻刻
- 関係地域
-
-
- キーワード
- 文書の年代
-
明和8年(1771)~明治初年