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文書群名

堀家文書

分類

諸家文書  >  堀家文書

点数

220

伝来地

目録内容

閲覧室目録

組織歴・履歴

堀来蔵(嘉永元年7/22生、1848~94)は、萩藩士北村家(遠近方触流・吉敷郡御堀村住)の出身。「北村家系譜」(所蔵者蔵)によれば北村文郷の長男金吾にあたる。『萩藩給禄帳』収録の安政2~6年(1855~59)「分限帳」には当時の北村家当主・久熊(28才、禄高3人扶持7石7斗5升)の嫡子に「金吾」がおり、この人物と考えられる。彼の履歴は、自身が明治25年(1892)に記した「履歴書」(No.1)に詳しい。これによれば、安政5年~文久元年(1858~61)、11~14才時に山口講習堂、山口明倫館で学び、のち「蘭式銃軍」も習得したという。文久3年(1863)6月、来嶋又兵衛率いる狙撃隊とともに上京、禁裏の守衛につくが、8月18日の政変により七卿とともに帰国。10月には郷勇隊司令士となり宮市に在陣。翌元治元年(1864)6月、来嶋又兵衛率いる遊撃隊として再度上京、禁門の変では最前線で戦い負傷。一説には、戦死した又兵衛の首を故郷へ持ち帰ったという(『大内村誌』)。元治内戦期には鴻城軍として戦闘に参加、慶応元年(1865)2月、鴻城軍第一隊長を命じられる。慶応2年、第2次幕長戦争時には鴻城軍参謀として芸州口に出張、8月には乙丑丸乗込士官として小倉口で戦う。 慶応3年正月、英国留学を望んで藩に無許可で長崎に赴き、その咎により士籍を?奪される。明治3年、山口での脱退騒動鎮圧時に功績があり9月に士籍を復された。しかし、同年12月、自ら志願して堀来蔵と改名、吉敷郡大内村で帰農し、以後農商実業に従事する。その後、明治22~25年に大内村会議員を務めたほか、同年に御堀村奥長谷の官有山野の山野開墾組合を創設、明治26年には旧諸隊士救済のため自ら委員長となって六合会を組織するなど、特徴的な社会活動を行う。また、御堀村、大内村総代として県への歎願活動なども行っている。 品川弥次郎とも親交があった。樗子と号し、戯号を亜保堂と号した。 明治27年(1894)7月、自宅にて病没。氷上長谷に墓所がある。

内容

基本的に、堀来蔵の活動に関わり授受、作成された文書で構成されているが、堀家の家として活動に関わるものも含まれる。以下15の主題に分けて配列した。1.藩政期/2.履歴書/3.大内村村会議員/4.六合会/5.山野開墾組合/6.地下総代・氷上組等/7.興隆寺一件/8.蔵目喜鉱山一件/9.難破船一件/10.布哇移民/11.金融/12.土地/13.諸事/14.書状/15.書籍・印刷物

論文・翻刻

▼『大内村誌』 ▼三原清堯『来島又兵衛伝』(1963年)

関係地域

キーワード

萩藩士(遠近方触流)/村会議員(大内村)/六合会/山野開墾組合/布哇移民

文書の年代

享保3年(1718)~昭和3年(1928)

選択中文書群名

堀家文書

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