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- 文書群名
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家族・一族
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諸家文書 > 佐川家文書(平生町佐合島) > 佐川家 > 佐川家 > 佐川家 > 家政 > 家族・一族
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- 目録内容
- 組織歴・履歴
- 内容
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一族間で交わされた書状・書簡類及び本来は分家に伝わるべきものと考えられる文書群。 伊勢松家は9代市兵衛真重の子伊勢松が、宝暦11年(1761)父より田畠を譲られ別家したのに始まる。天保年間に佐郷島畔頭を務めた市郎右衛門や幕末〜明治初期に佐郷島畔頭を、明治期に第五大区四小区佐合島総代人などを務めた市太郎は同家の出身。川本屋は、10代右平治泰高の子吉郎右衛門が天明3年(1783)田畠・居家等を分与されて分家したことに始まる。慶応3年(1867)12代文之祐邦高三男の惣之進がいったん断絶した川本屋を継ぐが、彼はのちに兄常三郎の跡を継いで佐川本家の当主となった。幾度家は佐賀村に在郷する萩藩士で、川本屋の吉郎右衛門の長男市治郎が幾度喜兵衛の養子となり、幾度源吾正?(のち伊右衛門)と名乗った。田中家は吉郎右衛門の次男の養子先。佐川文苗(市九郎、隆道)は、文化3年(1806)に別家した10代右平治泰高の四男伊兵衛の三男で、出家して大畠(現、柳井市)の戒善寺に入り、嘉永元年(1848)に勅許により香衣の着用を許された。明治期には、京都の相楽郡観音寺に所在する地蔵院の住職を務めた。佐川文鏡・文寿は、文苗の子供と考えられる。 弘茂佐市(佐川佐市)は12代文之祐邦高の次女シカが弘茂家に嫁してもうけた子供で、一時期(明治19年5月〜明治26年7月)佐川姓を名乗った。
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