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- 文書群名
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山野家文書
- 分類
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諸家文書 > 山野家文書
- 点数
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121
- 伝来地
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- 目録内容
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閲覧室目録
- 組織歴・履歴
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山野義忠(やまのよしただ 〜昭和13年4月29日)は大津郡深川町(現長門市)出身,山口歩兵第42連隊所属の陸軍兵士。昭和12年(1937)7月7日の蘆溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまると,歩兵第42連隊にも動員命令が下り,連隊は第5師団(師団長板垣四郎)の一隊として中国華北部(北支)へ派遣された。連隊は8月1日に山口を出陣し,13日に中国沙河鎮に着く。山野義忠も曹長として出征した。山野義忠の所属する隊は,太原,保定,済南(山西省,山東省)などを転戦し,昭和13年2月から山東省南部掃討作戦に参加する。昭和13年4月29日,北労溝の攻略戦に加わった山野義忠は,激戦の最中,袁庄の地で戦死を遂げた。戦死後,少尉に特進。/義忠の妻佐恵子は,嘉川小学校や深川小学校などで教鞭をとった。
- 内容
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陸軍兵士山野義忠に関わる文書,および遺族に残された文書で構成される。特に,中国に出征した山野義忠が,日本にいる妻に宛てた手紙(軍事郵便)が多数残る点が大きな特徴となっている。その内容は,戦地から妻と息子の様子を気遣うものを主とするが,おそらく検閲のあるなか,戦地の様子を生々しく伝える記述もあり注目される。山野義忠の雑記帳(ノート),彼の叙位叙勲に関するもの,写真,肩章・襟章なども含まれる。遺族関係では,昭和15年,遺族に送付された靖国神社合祀・臨時大祭に関する案内状などがまとまって残る。また,山野義忠の戦死を伝える昭和13年の新聞や,昭和23年11月13日付けの東京裁判判決記事を載せる毎日新聞も保存されている点も遺族の気持ちを理解する上で注目される。/追加分は,山野義忠と妻や同僚との間で交わされた書簡類と,義忠の雑記帳(ノート)が大部分を占める。また文書以外の資料として,戦地に携行していたピストルケース(NO98)が含まれているのが注目される。/なお,満蒙開拓青少年義勇隊山口中隊入隊壮行時の記念写真など長門市深川小学校生徒の写真(NO100)があるが,これは義忠の妻佐恵子が同小学校に勤務していたことに関わるものと考えられる。
- 論文・翻刻
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▽『山口歩兵第四十二連隊史』(山口歩兵第四十二連隊史編纂委員会 1988)▽『深川小学校百年史』(深川小学校創立百周年記念事業委員会,1972)
- 関係地域
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長門市
- キーワード
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陸軍兵士
- 文書の年代
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昭和8年(1933)〜昭和41年(1966)