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文書群名

鹿島家文書

分類

諸家文書  >  鹿島家文書

点数

777

伝来地

目録内容

閲覧室目録

組織歴・履歴

鹿島家は、江戸時代、萩町で活動した町人。嘉万屋市兵衛長男が正右衛門( 〜天保8年[1837]73才)を称し、分家したことに始まる。2代目正右衛門( 〜天保14年[1843] 46才)、3代正右衛門(梅吉、のち章。 〜明治25年[1892]68才)と続いた。/江戸時代、萩呉服町の年寄役、仲買頭取役、木綿仲買頭取を務めたほか、御客屋御用達、御撫育方御用達、御所帯方御返済方御用達など藩の主要役所の御用達を務めている。/藩への勤功により、名字、上下着用、御目見を免許されたほか、大年寄格を与えられた。安政元年(1854)に御目見御免を認められ、文久2年(1862)に大年寄格を与えられている。/幕末期、藩庁が山口へ移ると、藩から「山口屋敷」を与えられ活動の拠点を山口にも持った。/萩の有力町人の一人であった鹿島家は、幕末期藩財政への多大な協力を求められており、慶応3年(1867)8月には藩に代わって米1000石の売り捌きを担当し米代銀を藩に上納、明治元年(1868)正月には金3両、同6月には銀200貫を献納している。/また、文久年間には藩は鹿島家に銀1200貫を貸付けその利銀を藩に上納させた。これは鹿島家にとりかなり経済的な負担となり、明治以降にはその返済猶予、減免に関して山口県へ歎願している。/残された書状類には、幕末期に活躍した土屋蕭海(萩藩士佐世氏家臣、のち萩藩手廻組。吉田松陰との深い交友があったことで知られ、幕末期、京都や九州を往来し国事に活躍。元治元年9月死去、36才)や佐久間佐兵衛(萩藩大組士、国事に奔走するも、藩内対立の中で投獄され、元治元年11月死去)らの書状が比較的多くみられ、彼らとのつながりがうかがわれる点も特筆される。/明治期、3代正右衛門は家督および萩の屋敷地(呉服町)を養子治吉へ譲り、自身は大坂の鹿島家屋敷へ移り関西を中心に活動した。明治21年(1888)に兵庫県住吉村へ転居。正右衛門の子正助は、慶応義塾大学卒業後、明治39年(1906)に藤田組に入社し、秋田県小坂鉱山に勤務した。

内容

【1次寄託分】は、鹿島家文書のうち令和3年度に整理・目録化を終えたもの。/鹿島家文書は近年の整理により「資料1」から「資料14」までに分類されそれぞれビニール袋に納められていた。【1次寄託分】は、このうち「資料2 萩藩」「資料3 証文」「資料4 証文」「資料5 証文」「資料6 鹿島平三郎」「資料7 小倉城出展品」「資料11 萩土地」という7つの袋(ビニール袋)に分類されていたもの。本目録ではこの分類を踏襲し文書を配列している。/【2次寄託分】は令和4年度に整理・目録化を終了したもの。/近年の整理により「資料1」「資料8」「資料9」「資料10」「資料13」「資料14」という6つの袋(ビニール袋)に分類されていたもの(1次分と同様の整理)。主に鹿島家の明治期以降の活動に関わる文書で構成される。/【3次寄託分】は令和5年度に整理・目録化を終了したもの。/鹿島家に伝来した軸物資料、額装資料、写真類。/軸物資料には「毛利慶親(敬親)和歌」、広瀬旭荘が鹿島正右衛門(仙洲)に贈った漢詩、頼山陽書、明治17年の「萩城桜寄詩」などの書画がある。/額装資料には、長三洲(1833‐95 豊後出身)が鹿島正右衛門(仙洲)に宛てた書状がある。/写真史料には、3代鹿島正右衛門を写したガラス乾板をはじめ、明治期に鹿島家の人々を写した写真が多数残る。

論文・翻刻

関係地域

キーワード

萩町人

文書の年代

天明5年[1785]〜昭和40年[1965]

選択中文書群名

鹿島家文書

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