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- 文書群名
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小泉家文書
- 分類
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諸家文書 > 小泉家文書
- 点数
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86
- 伝来地
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- 目録内容
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閲覧室目録
- 組織歴・履歴
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小泉家は、江戸時代、上関に居住し代々医師として活躍した家。/同家の来歴は、「閥閲録」巻166上関裁判(小泉玄賀)に「小早川隆景書状写」(小泉家文書1)とともに収録される由緒書(当時の当主小泉玄賀が萩藩に提出したもの)で知られる。これによれば、「唐医」であった先祖「大官」が天文年間に出雲国へ来着したとする。毛利氏による尼子攻めの時、大官が出雲国に駐留する元就を治療することがあり、これを機に毛利氏に召し抱えられて給地を与えられ、のち広島に居住したという。「小早川隆景書状写」からこのころ隆景とのつながりがあったこともわかる。/倅玄甫が幼少のためその後給地召し上げとなり、続く宗古の代にかけ牢人として過ごしたが、道宅(玄賀養父)は医師として萩藩の寺社組に加えられたという。道宅には実子がなく跡職断絶となったが、養子玄賀は「御雇ニて医役相勤」とあるように地下医として活動した。以後小泉家は代々地下医として上関を中心に活動し、来日した朝鮮通信使が上関を通過する際にも医役を務めた。/小泉杏陰(玄常、玄譲、寛政6年〈1794〉〜安政3年〈1856〉)は医業の傍ら、詩文を好んで作り、頼杏平(広島藩士、儒学者)と親しく交わった。また、残された文書からは、広瀬旭壮(豊後国日田、儒学者・漢詩人、広瀬淡窓末弟)、篠崎小竹(大坂、儒学者、漢詩人)ら西日本各地の文人とのネットワークも知られる。「偸閑録」などの著作がある。
- 内容
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「小早川隆景書状写」(NO1)は年欠ながら小泉家の由緒を伝えるもっとも古い文書。「信使来朝日記」(NO2)「信使帰帆日記」(NO3)は宝暦13〜14年(1763〜64)の、「朝鮮信使来聘ニ付萩より御沙汰物其外諸仕出控」(NO4)は文化8年(1811)の朝鮮通信使来日に関わり、地下医小泉玄碩の動向がわかる記録。「静観樓記」(NO5)や「諸家書簡綴」(NO6)などは頼杏平をはじめ小泉家の人的ネットワークを示すもの。小泉杏陰の著作として「偸間録」32巻(欠あり)、「杏隠斎詩集」17巻などが残る。
- 論文・翻刻
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▼『上関町史』 ■『萩藩閥閲録』巻166上関裁判(小泉玄賀) ■『山口県史 史料編 中世2』
- 関係地域
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- キーワード
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藩医/文化人/朝鮮通信使
- 文書の年代
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戦国期〜安政2年(1855)