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- 文書群名
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波多野家文書(光市)
- 分類
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諸家文書 > 波多野家文書(光市)
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21
- 伝来地
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- 目録内容
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閲覧室目録
- 組織歴・履歴
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波多野家の家紋は「切竹に五枚笹」で,石見吉見氏の譜代家臣である源姓の波多野氏の流れを汲む可能性があるが,詳細は不詳。同家は,遅くとも戦国期の文亀元年(1501)には大内氏家臣として活動していることが確認でき,天文15年(1546)〜天文21年(1552)頃には周防国都濃郡切山保(現,下松市)内の20石地を知行している。その後,弘治2年(1556)春には周防国蓮華山(現,岩国市)で毛利方として働いているから,毛利氏の防長侵攻の過程で同氏に服属したことが知られる。/江戸時代初期の慶長末年頃,波多野家は周防国熊毛郡三輪荘見原(現,光市三輪)に来住。寛文年間の勝定(道宅)の時,隣の塩田(現,光市)に転居し医業に携わった。勝定(道宅)の後を継いだ勝為は,正徳2年(1712)周防国熊毛郡三輪荘石亀に住む勘場医の石津玄宅の遺族と養子縁組し,石津周益とも称したというが,享保年間に編まれた「閥閲録」には熊毛郡塩田村医師波多野周益として,その名が見える。これ以降,同家は医家としては石津という名字を名乗ったが,明治初期の戸籍法で石津に統一するまで,波多野という名字も併用したという。/「閥閲録」巻167熊毛宰判 波多野周益家がこの家に当たる。
- 内容
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波多野家が,主に戦国期に大内氏や毛利氏の家臣として活動したことにより受領した文書(NO1)が中心で,これらは「閥閲録」巻167熊毛宰判 波多野周益や「風土注進案」熊毛宰判塩田村の塩田村地下雇医師石津玄宅家筋由緒書?所持之御判物之写に収録されている文書の正文に相当する。/このうち最も古い永正3年(1506)の大内氏家臣連署奉書は,文亀元年(1501)豊前国沓尾崎(現,福岡県行橋市)合戦に大内氏の有力武将・仁保護郷の「同道衆」として加わって討死した波多野安郷の軍事行動の事情を示すものとして,研究史でも取り上げられている。これ以外では,かつて同家が所持していた周防国熊毛郡の大都賀寺に関わる戦国期の文書写し(「風土注進案」熊毛宰判塩田村の石津玄宅持来り候訳不相分御判物之写に収録)とそれを貸し出した際の関係文書がある(NO2)。波多野・石津家の系図も含まれる。
- 論文・翻刻
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▼『久保村郷土誌』(久保村教育会,1931年)▼『防長風土注進案 巻7 熊毛宰判』(山口県文書館,1963年)■『萩藩閥閲録 巻4』(山口県文書館,1971年)▼川岡勉「大内氏の軍事編成と御家人制」(『ヒストリア』97,1982年)▼『下松市史 通史編』(下松市,1989年)▼『切山八幡宮 本殿大改修記念 切山の歩みと切山八幡宮』(2000年)▼河村蒸一郎「切山に地領を有した波多野末裔石津氏に伝来する御判物十通』」(『下松地方史研究』51,2015年)▼石津宏『下松地方史研究 第五十一輯 抜粋「切山に地領を有した波多野末裔石津氏に伝来する御判物十通」(河村蒸一郎著) 別刷』(自家版,2016年)▼石津宏「室町期に切山に在住した領主 波多野氏」(『下松地方史研究』55,2019年)
- 関係地域
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- キーワード
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大内氏家臣/毛利氏家臣/勘場医
- 文書の年代
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永正3年(1506)〜天保13年(1842)